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2015-11-18

白州正子氏も愛した「菅浦」

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白州正子氏も愛した菅浦、、、、

=菅浦=

 びわ湖の最北端。深く入り組んだ湖岸沿に竹生島と葛篭尾崎があり

標高400mの山々に包まれるようにして菅浦の集落はあります。

その特異な地形や文化、豊富な歴史ゆえに著名人もたくさん訪れている。

=歴史=

集落の入口(西側)には「四足門」と言われる茅葺きの門があり、

村の出入りを監視する要害の門、今で言う関所の役目を果たしていました。

また別名を「四方門」とも呼ばれていました。

東西南北の集落入口に設置され集落内を明確にしていました。

この四足門は菅浦に残された文書から中世後期からすでに存在していたことが確認されています。

=伝説=

淳仁天皇を祭神とする須賀神社があり

この地域には淳仁天皇の伝説が残っています。

菅浦の人々は淳仁天皇の氏子として暮らして来られました。

淳仁天皇は恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れ、

淡路の廃帝となり淡路(兵庫県)に遷じられて崩御されたと言われています。

しかし、菅浦に伝わる伝説は…

恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れこの地に隠棲したと言う。

都を追われ、びわ湖渡りこの地に流れ着いた。

その際に葛篭(かご)に隠れて舟に乗り運れてきたそうで、

淡路というのは淡海の近江と伝わっています。

また葛篭に隠れて…という所からなまり葛篭尾となり、葛篭尾崎と地名がつきました。

さらに昭和46年に奧琵琶湖パークウェイが開通するまで、

交通手段は船が主で陸の孤島だった事もかくれ里と言われるきっかけになっています。

=文化=

前はびわ湖、後ろは山。

田畑を耕す土地が少ないため、石垣を積んだ防波堤の上の小さな

スペースに野菜や果樹を植えています。また、山肌にも八朔やみかんの木があります。

今も土地は個人の所有物ではなく、菅浦の財産だという意識が強く

09年現在76戸。この1000年の間、平均100戸前後を推移しており、

これは昔から跡取り以外はよその地へ…土地を売買するのは集落内で、

引っ越しは村の中で家を交換する家移りで、という決まり事を守ってきたからだといわれています。 

 
=風習=

「そなた(あなた)わら(私)」という公家言葉を話したりする。

これは先に記した伝説に信憑性を持たせる。さらに「六三郎」「清三郎」

と先祖の屋号で呼び合うなど変わった風習が残っています。

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